カイムの古語をうたうように唱え、冴利は梅子を眠らせる。くずおれた梅子の身体を抱きとめながら、大松はかなしそうに継母を見つめる。
「母上……」
「お前など、妾の息子でも次期神皇帝の器となる者でもない。おとなしくその権利を妾の息子へ譲渡いたせ。そうすれば命だけは助けてやっても構わぬぞ?」この部屋に飾られている暗褐色の薔薇よりも深い、赤黒いひかりが灰色の双眸から浮かび上がる。カイムの民特有の加護を、『雨』の出身である冴利もまた持ち、ちからを操れる人間なのだと幹仁は悟る。大松の方が冴利を糾弾すべき立場にいるというのに、冴利は自分の罪が暴かれてもうろたえることなく、大松に迫っている。居直っているのか、それとも……
「我を消したところで、解決はせぬ。父皇が真の次代として命じたのは、弟だからな」
「なに」目の前の皇太子さえいなくなれば息子が次代の神皇となると信じていた冴利は、忘れかけていたもうひとりの皇子の存在を思い出し、愕然とする。
「小環(ショウワ)が……? まさか、そのようなこと、名治さまは妾にひとことも」
うろたえる冴利へ追い打ちをかけるように、新たに現れた人物の声が、部屋に響く。
「言うわけないだろ。言ったらお前は彼をも害そうと必死になって彼を大陸に遣ることも阻止しようとしただろうからね」
「帝だ……」事の成り行きを見つめていた朝仁が、信じられないと声をあげる。幹仁も、遠目でしか拝見したことのない彼の登場に、言葉を詰まらせている。
名治は傍らに侍女らしき少女を連れて部屋の中を進んでいく。女中服(メイド)姿の彼女は無表情のまま、応接椅子に横たえられた梅子の傍に膝をつき、冴利がしたように、古語を唱える。すると、呪いはするりと解け、梅子の意識が覚醒する。
「ん……梅子は?」
「眠らされていただけです。命に別条はございませんわ」表情を変えることなく梅子にかけられた呪いを解いた少女は、夫である名治
* * *「お前……鬼造あられか?」 先に言葉を発したのは小環だった。 いつもふたりでいる鬼造姉妹の、背丈が低い方が姉で、高いのが妹である。小環に手を握られたまま、桜桃も目の前で松明を掲げて立っていたあられの姿を凝視する。「ええ。姉上は寒河江さんの食事を片しに行っているわ。いまのうちに、中に入って」「え?」 てっきり咎められるのだと思っていた桜桃は間の抜けた声を出して目を瞬かせる。「三上さん。あなたが天神の娘で、『雪』の望む天女であるなら……わたしはあなたを信じてみようかな、って思ったのよ」 あられは微笑を浮かべたまま、怪訝そうな表情になった小環に伝える。「わたし、『雨』の強引なやり方に疑問を持っちゃったの。『雪』の雹衛(ひょうえ)や逆さ斎にいろいろ吹きこまれちゃったから」「吹きこむとは失礼だな」 桜桃と小環を追いかけてきた四季とかすみが合流したのを見て、あられは苦笑する。「あら、あなたたちまで来るとは思わなかったわ」「お姉さまひとりだと、何かあったとき心配だもの」 かすみはあられの前で頬を膨らませながら、桜桃と小環の前に立ち、深く頭を垂れる。「逆さ斎の式神として四季に仕えております、古都律華鬼造家三女で『雨』の能力者、鬼造かすみと申します。天神の娘と始祖神の末裔であられるお二方にご挨拶が遅くなり申し訳ありません」 するすると流れるように言葉を口にするかすみを見て、桜桃と小環は圧倒される。「彼女が、逆井の式神なのか……?」「うん。あられの身代わりでしょっちゅうこの学校に潜入してた妹だよ」 小環の言葉に四季は素直に頷く。そして四季からかすみがまだ十三歳でこの学校の生徒ではないこと、彼女だけが鬼造一族のなかでちからを持つ『雨』の能力者であること、それゆえ古都律華の令嬢として扱われていない身分にあることなどを一気に説明される。「…
カイムの古語をうたうように唱え、冴利は梅子を眠らせる。くずおれた梅子の身体を抱きとめながら、大松はかなしそうに継母を見つめる。「母上……」「お前など、妾の息子でも次期神皇帝の器となる者でもない。おとなしくその権利を妾の息子へ譲渡いたせ。そうすれば命だけは助けてやっても構わぬぞ?」 この部屋に飾られている暗褐色の薔薇よりも深い、赤黒いひかりが灰色の双眸から浮かび上がる。カイムの民特有の加護を、『雨』の出身である冴利もまた持ち、ちからを操れる人間なのだと幹仁は悟る。大松の方が冴利を糾弾すべき立場にいるというのに、冴利は自分の罪が暴かれてもうろたえることなく、大松に迫っている。居直っているのか、それとも……「我を消したところで、解決はせぬ。父皇が真の次代として命じたのは、弟だからな」「なに」 目の前の皇太子さえいなくなれば息子が次代の神皇となると信じていた冴利は、忘れかけていたもうひとりの皇子の存在を思い出し、愕然とする。「小環(ショウワ)が……? まさか、そのようなこと、名治さまは妾にひとことも」 うろたえる冴利へ追い打ちをかけるように、新たに現れた人物の声が、部屋に響く。「言うわけないだろ。言ったらお前は彼をも害そうと必死になって彼を大陸に遣ることも阻止しようとしただろうからね」「帝だ……」 事の成り行きを見つめていた朝仁が、信じられないと声をあげる。幹仁も、遠目でしか拝見したことのない彼の登場に、言葉を詰まらせている。 名治は傍らに侍女らしき少女を連れて部屋の中を進んでいく。女中服(メイド)姿の彼女は無表情のまま、応接椅子に横たえられた梅子の傍に膝をつき、冴利がしたように、古語を唱える。すると、呪いはするりと解け、梅子の意識が覚醒する。「ん……梅子は?」「眠らされていただけです。命に別条はございませんわ」 表情を変えることなく梅子にかけられた呪いを解いた少女は、夫である名治
「……どういうことだ」 幹仁と朝仁は再び緊張を取り戻した応接室で、じっと耳を傾ける。自分たちが想像していたよりも、事態は複雑で、それゆえ混沌としている。「冴利さまのご実家は古都律華の水嶌家。世間では伊妻が滅んでから神皇帝のもとへ嫁入りされたこともあり新たな御三家とも言われているけど、彼らはその地位をありがたがることをせず、迷惑そうにしていたわ」 梅子は憎らしげに口を開き、自分が導いた推理を披露していく。「伊妻の反乱が北海大陸で起きたのは十八年前。当時、北海大陸は伊妻、水嶌両家が開拓の先陣を切っていたわ。帝都清華は出遅れた形になって、結局、土地の大半は古都律華によって支配されてしまった。けれど、前神皇帝が病に倒れ、名治神皇が皇位を継いだことで、帝都清華の勢力が強まった。それを危惧した伊妻は後先考えず皇一族に反旗を翻し北海大陸の陸軍駐屯地へ宣戦布告。一時的に北海大陸一帯を占領されたものの、帝都より派遣された討伐軍によって騒ぎは鎮圧された」 言葉を切り、梅子は幹仁たちの反応を確かめる。梅子の隣に座っていた大松は従者が呼んだ冴利を迎えに扉の前へ足を運んでいる。「このとき、水嶌家は無関係とされている。この家は古都律華に属しているとはいえもともとは北海大陸の先住民であるカイムの民によって興された『雨』の傍流。『雨』を婚姻で強引に自分たちのもとへ引き込んだ伊妻とは異なり、立場的には『雪』に近いとされていたから」 だから神皇帝は伊妻一族だけを滅ぼすことにした。そして大陸へ渡ったのが梅子の父、樹太朗と故向清棲前伯爵である。「でも、それが仇になった。当時、伊妻霜一には生まれたばかりの娘がいた。彼女は水嶌家の乳母に預けられていたのよ!」 だから伊妻の娘は命をつなぎとめた。そして、自分が成長した暁にはこの国を乗っ取ろうと、復讐を誓ったに違いないのだ、と。 梅子の悲痛な叫びを嘲笑うかのように、甲高い靴音が廊下に木霊する。複数の足音にもみ消されることなく響く靴音は、梅子の傍でぴたりと止まる。穢れを知らない白の西洋服ドレスを鎧のように纏い、銀色に煌めく靴を履いた正妃が、漆黒の闇を彷彿させる黒真珠の首飾りを
「天神の娘の元婚約者である伯爵どのにも、興味深い話だと思うのだが」 「たしかに、面白そうですが……」 空我侯爵の愛妾の娘と幹仁に面識はない。婚約解消した今、顔を合わせて何になる? 幹仁の葛藤する様を大松は瞬きすることなく見つめている。そんなふたりをよそに朝仁だけは狼狽をつづけていたが、やがて勇気を出して大松に声をかける。「――皇太子殿下、小生だけが大陸を渡ることは可能でしょうか?」 「朝仁?」 「げんざい兄上は帝都清華の頂点である空我侯爵不在の穴を柚葉どのと埋めるので手一杯なのは殿下も御存知の筈。だというのに北海大陸へ兄上を遣るというのは職務を放棄しろというのと同じ。兄上だけでなく小生も帝都で『雪』との商談に応じた経験があります。婚約者を見舞い、状況を確認する人間はひとりで問題ないと思いますが?」 意志の籠った視線が、大松を射抜く。婚約者の安否が気になる朝仁の強気の発言に、大松は大仰に頷く。「そうか。それもそうだな。では、向清棲朝仁に命ずる。我が義兄上を伴い、北海大陸に入り、そなたの婚約者である黒多桂也乃嬢を迎えにゆくのだ」 見舞いではなく迎えに行けと、大松は命令した。それはつまり。「神嫁御渡……」 幹仁の呟きに、大松は知っておったかと軽く頷く。『雪』の部族で花嫁修業と際して鬼造が創設した冠理女学校へ入学した少女が、卒業するために呪術で表情を殺して迎えに来た花婿とともに逃げるように去ったという話を人伝に聞いたのを思い出し、身震いする。 女学校を去る際に乙女は神に供物を渡さなくてはならないのだという。感謝の意を込めた捧げものの習慣は、人間が古の掟を捻じ曲げたため呪いとなってしまったときく。血の味を覚えた神の花嫁として身体の一部を差し出したり、花婿のあてがない乙女は人柱にされてしまうなどという噂もあるが、真実は未だわからず大松は訝しがっている。神の怒りか人間の作為か、果てはその両方か……「黒多子爵にも食事のときにその旨は伝えておる。時期が早まってしまったのは仕方がないが、このままだと彼女、邪神に食われるぞ」 「邪神?」
暮春。暦の上では間もなく初夏に入ろうとしているというのに、北海大陸には未だ寒気が横たわり春の訪れを阻んでいるときく。『雪』から嘆願を受けた神皇帝の息子である大松皇子は、彼らと交渉をつづけている向清棲伯爵こと幹仁と弟を己の住まいである紅薔薇宮(くれないそうびのみや)での晩餐会に招待し、その後内密に応接間に呼び出し、にこやかに決定事項を口にした。「向清棲幹仁、ならびに朝仁(ともひと)、そなたらを北海大陸に送りたい」 紅薔薇と名がつくとおり、皇太子のために造られたこの離宮は赤みがかった火山石と薄紅色の珊瑚がふんだんに使われ、見る者を圧倒させている。神皇の玉座がある黄金色の明時宮や現正妃が暮らすために準備された伽羅色の煉瓦造りの入陽宮と比べても、見劣りはしない豪奢な造りだ。 その建物の主は皇一族の長である名治の最初の正妃、蛍子が最初に産んだ皇子、大松。年齢は幹仁と同じくらいだが、背丈は低く、透き通った肌の色は病弱ゆえに青白く、どこか弱々しく儚い雰囲気を抱かせる。 だが、彼の瞳はそれを裏切るように輝き、その場にいる人間を虜にさせる。 彼が次の帝になるのだろう。帝都清華は病弱だが賢王の素質を持つ大松の支持にまわり、協力体制を築いている。彼の言葉に従うのも当然である。 帝都清華と古都律華の天神の娘をめぐる攻防について、新たな情報でも入ったのだろうか。蝋燭に照らし出された香りのきつい大輪の暗褐色の紅薔薇が活けられた花瓶が飾られている応接卓を挟んで、幹仁は目の前で絶えず微笑みを浮かべる皇太子殿下を見返し、苦笑する。「それはまた、突然のご命令ですね。理由をお聞かせ願えますか?」 「湾義兄上に届いた手紙によると、黒多子爵令嬢が負傷したそうだ。婚約者が見舞いに行くのは当然のことではないか?」 「……桂也乃が?」 さっと顔色を青くしたのは幹仁の末の弟で黒多桂也乃と許嫁の関係にある十六歳の朝仁である。幹仁は自分だけでなくまだ学生の身分である弟を連れて来るよう命じられた理由を悟り、大松の黒水晶のような瞳を見据える。「どうやら、『雪』の生徒に猟銃で撃たれたらしい。彼女は天神の娘を庇ったのだよ」 「なんでまた
あの、穏やかで普遍的な閉ざされた洋館で、籠の中の小鳥のように静かに歌を囀って訪れる彼を癒してあげる。桜桃はそれだけで充分なのだとうたうように小環に告げる。「柚葉、か」 桜桃が口にする異母兄の名を耳にするたびに小環は腹立たしい気持ちと淋しい気持ちがないまぜになってむかむかしてくる。傍に湾がいたらきっと嫉妬だと断言するであろうその得体の知れない感情を胸に、小環は桜桃の手を強く握りしめる。「な、なに? 痛いんだけど」 「そんなに柚葉のもとに帰りたいのか」 「……できれば、だけど」 桜桃は弱々しく応え、切なそうな表情をしている小環の横顔を見上げる。どうして彼がそんな表情をしているのか、桜桃には理解できない。「それは、叶わない夢だよ」 けれど、小環にそんな表情をさせたくなくて、桜桃は自分の諦観を正直に伝える。 この騒動が治まっても、自分は柚葉の傍に戻れない気がする。柚葉は帝都清華の人間で、自分が傍にいる限り、絶対に迷惑をかけてしまうから。桜桃の存在が公にされたいま、元いた場所へ戻るという選択肢は選べない。「だから、そのときは小環が神皇帝のところに連れて行って構わないよ」 泣き笑いの表情で決意する桜桃を見て、小環の心は揺さぶられる。灰色がかった榛色の澄み切った瞳は空を覆う分厚い雲間からかすかに浮かぶ鋭い月のひかりに照らされ、神秘的なまでに煌めいている。「……それでいいのか」 思わず、小環は口を出していた。ほんとうなら、桜桃のこの言葉は、自分にとって喜ばしい言葉のはずだ。なのになぜだろう。 ちっとも嬉しくない。「うん、心配してくれてるの? 大丈夫だよ。あたしはもう、鳥籠の中で安穏と過ごしているだけの小鳥じゃないの。ゆずにいはお願いしたらずっと護ってくれると思うけど、彼の将来を壊してまで、あたしは傍にいたくない」 桜桃はそう噛みしめるように、言葉に力を込める。「あたしは『天』の部族、カシケキクの末裔でカイムの巫女姫の娘。この歪んだ大陸を元通りにして、醜い争いに終止符を打たなくちゃいけない……小環は言